もしかして、同潤会現存のひとつか
このところ、時間をみては、横浜の関東大震災後や戦後の復興について、
ひたすら検索して調べていました。
大正13年の防火築建築補助規則の施行とともに、
建築の不燃・耐火化が復興に欠かせないものとされ、
佐野利器(辰野金吾の教え子)らによる「復興建築助成株式会社」の動きで、
耐火の「共同建築」が次々と生まれます。
同潤会も初期は、「不良住宅地区」の改良事業として、当時スラム化が進んでいた
南太田などへの住宅供給と、ソフト面でも職業や生活改善の仕組みづくりなどに
力点が置かれていたことなどをはじめて知りました。
などと、いろいろな研究者の文献などを見ますと、
さりげなく、
同潤会のリストに「昭和11年に川崎区大島で分譲住宅24戸」と出てくるのです。
同潤会が同じ時期つくってきた、分譲住宅のプランや特徴については、
赤羽などの例が紹介されているのですが、川崎の情報が少ない…。
そこで、いくつかの研究文献と地図を見ながら私なりに推測したのが、
こちらの住宅、
昭和11年の同潤会が24戸分譲したうちの唯一現存する一軒ではないかと
の想いに到達しました。
今年の夏、たまたま通りがかって、佇まいがいいなーと思って記録していました。
推測の根拠は、文献にある旧住所に近く、屋根の妻側のデザインが、
この頃の同潤会の戸建てデザインとして紹介されているものにそっくりだからです。
また、2003年に発表されている内田青蔵先生の遺構調査の中にも、24戸中1戸現存。
とありましたので、、、。
なんだか、宝探しから、宝を探し当てたような気分です。
しかしながら、今は空き家となっていました。だいぶ放置されている印象です。
取り壊される日も近そうです。とても残念ですね。
屋根のプロポーションが瓦屋根なのですが、とても軽快に見えます。
外壁の杉の下見板張りと妻側のハーフチェンバーのコントラストも
古いけれども洗練されていてすっきり見えるんですよね。
塀が生垣に変わって、手入れしていけたらまだまだなんだと思うのですが。。。
まちの歴史って興味尽きないですね。
by S.小野
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