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2012年1月 7日 (土)

同潤会戸建て 横浜・大岡住宅周辺を歩く

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関東大震災の復興事業の一環として発足した同潤会は、

広域分布する罹災者への対応を画策し、

横浜市内に4つの賃貸普通住宅を計画しています。

そのうちの一つである大岡住宅のあった場所を歩いてきました。

というか、

割と近くで木造のお住まいの耐震改修リフォームのお手伝いをしていることもあり、

ちょっと寄り道してきたといったようなものですが…。

Dscf4506

このクランクした道の向こうが対象エリアです。

バス停に「大岡住宅」の名が残っています。

奥へ道が延びていますが、縁石が立ち上がっており、ガードもあって

車は進入禁止、大きな桜の木もあり、接道の扱いがどうなっているのか、

古い街路となっていることがわかります。

Dscf4503

Dscf4502

対象エリアの中心部です。

最近舗装されたのかなと思われる黒々したアスファルト。

宅地と道との境界も分かりにくい感じ、、、通過交通が制限されていて、

(行き止まり路地などもあり)

樹木も残され、生活空間は守られているように感じました。

外部からの進入口は小さく、中心に向かって広がっていくような構成です。

Dscf4501 この奥が対象エリアです。

右に見える切妻屋根で長屋のようにつながっている2階屋は、もしや…、

Dscf4500

Dscf4499

このスタイル…

同潤会による建設当初からの建築ではないかなと思われます。

大正14年、124戸のうちの数個でも残っているのは奇跡かもしれないなと思いました。

ブロック塀はちょっと残念な印象ですが、下屋と2階の乗せ方については、

住棟間の日照等を考慮しているようにも感じました。

横浜市内ではその後、

昭和2年に山下町と平沼町にアパートメントハウスをつくりましたが、

現存していません。

現存する同潤会アパートメントハウスは、上野下アパートたった一つになってしまいました。

その上野下アパートも建て替えが検討されているとのことなので、

当初からのアパートメントの存続は、風前の灯といった状況といえるでしょう。

そんな中、震災復興の理念を持って計画されてきた

同潤会の戸建て、もしくは賃貸普通住宅たちの今に、

もっとスポットが当たっても良いように思います。

この大岡住宅エリアもそのほとんどは、残像も無く、

建売住宅として建築中の現場もありました。そうして歴史が風化してしまうのでしょう。

実はこの大岡住宅は、ロケーションにミソがあるように感じました。

旧鎌倉街道から1本入ったところで、西に河川、東に大きな丘、

横浜港湾地域から比較的近く、南太田が震災後そうであったような、

貧困化などの問題も抱えていたのではないかなと…、

隣接した場所には、古くからの商屋さんなどの残存があり、

そうした地域の方々の協力があってのドラマがあったのではないかな…

などまったくの空想ですが、そんなことを考えながら歩いてきました。

最後に隣接したところに残る、洋館付き住宅などの写真をのせてみます。

Dscf4498

Dscf4504

他の横浜・川崎の同潤会の戸建て、賃貸普通住宅のあった地域も

残像探しに歩いてみたくなりました。

南太田、滝頭、井土ヶ谷、新山下など、、、。

川崎の大島の勤人向け分譲については、こちらでコメントしてみましたので観てみて下さい。

by S.小野

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まちなみ採取(川崎区以外編)」カテゴリの記事

コメント

初めてメールさせていただきます。 自分は富山県滑川市在住の島崎と申します。
いろいろネットを検索しましたらこちらのサイトにたどりつきました。
実は自分の妻の母親の生地が、旧横浜市中区井土ヶ谷と聞き、その場所に赴きたいのですが、なんせ昭和10年ころの住所で、ネットで住所を検索しても、横浜南区役所に尋ねても答えは返ってきません。
もしわかればで結構です、 旧昭和10年住所 横浜市中区井土ヶ谷593番地が今のだいたいどの場所かわかれば教えていただけないでしょうか?
よろしくお願いいたします。

島崎様 
たどりついてくださりありがとうございます。
593番地がどこかピンポイントではわかりかねますが、だいたいこのあたりということであれば、以下のwebで昭和初期の地図がみられますので参考になるかと思います。
 「三千分一地形図」(昭和初期)横浜市のHP内です。
http://www.city.yokohama.jp/me/machi/kikaku/cityplan/gis/3000map.html

この中の
NO.36 南太田(S.7年)
NO.41 大岡(S.10年)
にまたがるように「井土ヶ谷町」がみられます。
これらの地図をみると井土ヶ谷町のあとに「大字〇〇」として例えば、南橋とか鳥井戸とかがつきそうな気がしますが、エリアとしては決して大きな町の規模では無さそうですね。
593という大きな数値の番号が付いているという事は、どちらかと言えば傾斜付近ではなく、平地で住宅が密集している一隅ではないかと想像できそうです。
本気で探すとしたら、市立図書館などで古い地図や郷土資料をみたり、法務局で古い登記(戦前は残っていないかも)をチェックする方法もあるかもです。
ご生存されていらっしゃれば、地図に記載のあるキーワード(橋や会社の名前)を出して、記憶をたどれるといいのかもしれませんね。

島崎様
ウィキによると、1936(S11)年11月に、井土ヶ谷上町、中町、下町に町名があらためられたようですね。
ちなみに、京急・井土ヶ谷駅は、1930(S.5)年開業とのことなので、
昭和10年ころは、いろいろと町が様変わりしている真っただ中だったのかもしれないですね。
S.7地図で、国道(平戸桜木道路)が桜木町から井土ヶ谷まで通された状態ですが、この後すぐに国道で分断したものとも想像できますね。

はじめまして、
30年程昔に仕事で、毎日のように法務局に通っていました、

現在は、コンピュータ化されてしまい、
帳簿の閲覧は願い出るか、特別に申請しないと無理かもしれませんが
帳簿や資料(地図)が法務局に残っていれば、
明治時代初期まで遡って閲覧できるはずです、
自身の経験として、明治初期の筆書きの地図(現在の公図にあたる)
旧帳簿を閲覧したことが何度もあります

法務局には。可能な限り遡って過去の帳簿や地図が保管されていて
現在の登記システム以前の資料も保管されていますので
不正な理由でなければ、保管資料を閲覧することが出来ます

昭和10年当時の旧公図を閲覧させてもらい、
法務局に備えられているブルーマップと見比べれば
現在の町名が解ると思います、

現在の町名と地番
(おそらく593か593-○の様に枝番が付いてるかと思われますが)
から、旧帳簿を閲覧できれば、中区から南区への変更や町名の変更等も
すべて帳簿に記されています、

複雑な権利関係の移動があれば、593の地番そのものが廃番になっている可能性もありますが、
その場合も、現在の地番から辿って旧帳簿を閲覧すれば
合筆による地番の廃番を調べることが出来ます

法務局の相談窓口に根気よく、粘って
どういう理由で、何を調べたいか説明すれば、
きっと調べられると思います

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