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まちなみ採取(川崎区以外編)

2022年6月12日 (日)

妙蓮寺前住宅地の石碑

東横線・妙蓮寺駅は、これまで何度か下車したことはありましたが、
妙蓮寺の裏手の高台の住宅エリアは、初めて歩きました。

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(リフォームの相談があり)

静かで落ち着いていて、古い住宅もポツポツ残っており、
なかなか素敵な印象です。

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(相談された住宅も昭和35年築の素敵なおうちでした、)

近くには、洋館付き住宅もありました。

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また、妙蓮寺の裏門に「妙蓮寺前住宅」という大きな石碑があり、

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戻って検索してみたら、

昭和初期、横浜貿易新聞社という新聞社が、
関東大震災の復興がすすむ駅周辺の住宅開発地に対し、
「新住宅地十佳選投票」という各地の住宅地のPR のための人気投票企画を行っていて、これが大変話題になったという事でした。

つまり、その人気投票で十佳選に選ばれた記念として建てた石碑のようです。

ちなみに妙蓮寺駅開業も震災後となる大正15年。

(詳しくは、横浜開港資料館HPを参照。)

http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/108/02-3.html

 

昭和19年航空地図でも区画割がきちんとされ、新しい住宅が立ち並んでいる様子が見られます。

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年月を経て、街並みを見るとだいぶ新しく建替えられてきていますが、
育ってきた緑にその歴史の一端を感じます。

リフォーム計画自体は、来年年明けから…。

小さな計画ですが、ゆっくりコツコツ^^;

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関わっていけたら…ということで^^;

by S.Ono

2022年4月 2日 (土)

たまたま遭遇した街並みから感じたこと…

ある建築トラブルの調査に伺ったおり、バス停までの周辺を散策しつつ、
坂を曲がりながら下ったところに、
ちょっと衝撃的(勝手にびっくりしただけですすみません…)な一角に出会いました^^;

同じ住宅がずーっと奥まできれいに並んでいます。
そのブロックの裏手も同じ住宅が奥まで並んでいます。
結構な迫力でした。

実は、その隣のブロックにはほぼ同じ規模の敷地と思われるところに
マンションが1棟建っていました。

そうか、この街区でマンションを建てると、こうなって、
戸建住宅を効率よく配置すると、こうなるのか…。
買うなら戸建かマンションか?


教科書の例示のような街並みだなぁと。。。

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よく街並みを評価する際、統一感とか言われたりもしますよね^^;
しかし…、
ここまで統一されていると、美しいかと問われるとそうは感じないなぁと。
自分の家が何件目だっけ?ってなりそうだし…^^;

街並みに必要なものって何かなぁと考えてみると、
一定のボリューム的ルールのもと、
やっぱり、個性の表出と、いい歳のとり方をする素材、
そして緑が育つ環境の表出などが加わってほしい気がします。

凸凹していてちょうどいい。
みんな優等生だと詰まんない…。

人の暮らしも街並みも、きっと地続きだ。
そんな人間臭い街並みが愛らしく感じるんだよなぁなどと
バスに乗りながら妄想しておりました。


どんな歳のとり方をしていくのか、
50年後の評価はいかに…。

by S.Ono


2019年5月27日 (月)

高幡鹿島台ガーデン54&フォレステージ 見学に参加してきました。

先日、母校建築OB企画の見学会に参加してきました。
建築家、故宮脇檀の宅地開発・まちづくりの仕事を学ぶ機会になりました。

宮脇檀建築研究室OBの二瓶さんの案内による見学会でした。
日野市京王線「高幡不動駅」から北斜面を15分ほど歩いた住宅地。

1984年完成のガーデン54(54住戸)と1997年のフォレステージ(53住戸)隣り合った住宅地です。

周辺は1970年頃に大規模な宅地開発が先に行われた地域。

北斜面を棚壇上に開発されているため北接道敷地は擁壁と地下車庫が道路に迫って立ちはだかるような街並みが続いています。
50年ほど経つことから、空き家も目立ち、建て替えも進んでいるようで、
敷地分筆してボックスカルバートと擁壁をつくり替えたり、
青空駐車にして新規擁壁を引っ込めたり、旧耐震時の車庫・擁壁の扱いに苦慮している様子が見られました。

 

そんな住宅地を抜けてたどり着きますと、雰囲気がガラッと変わります。

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まず、宅地割りといいますか道路が、それまでの縦横整然としたものとは異なり、
緩やかなカーブを描き、奥行きが感じられます。舗装材も工夫され、通過交通を抑えるボンエルフが導入されています。
歩行者用の細い生活道路の先にポケットパーク的スペースが配置されています。
電柱は、すべて埋設にするのはコストの関係があったとの事で、
敷地同士の背中側の隣地境界線に沿って電柱を立て分配することで、街路側には電柱が見えない様に工夫されています。
植栽や樹木も豊かに配されており、道路と高木類は行政の管理、低木植栽は、
隣地境界線をあいまいに見せる効果をつくりだしていて、これらは管理組合で管理しているとの事でした。
街並みに向けた顔を整える目的で、共通のゲートをあらかじめ設計してありました。
長期的景観の移り変わりをイメージできていたという事ですね。

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戸建て分譲地ですが、マンションのように管理組合を設立し、
共用部分の管理の一部を居住者間で行うようにして、緑環境の維持とコミュニティ維持にも役立っているそうです。

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故宮脇はこうした住宅地開発には、
5つのハードと1つのソフトが大事だと言っていたとの話がありました。
5つのハードとは、造成計画、施設計画、住戸建築計画、外構計画、宅地内計画、
ソフトとは、エリアマネジメントによる景観維持。
そうした理念によって、開発母体、行政への説得と理解の獲得の元、街並みづくりに尽力され、今に至っているとの事。
地区計画だけでは守られないマネジメントこそが重要とのお話も。
今後、管理組合に理解の元協力してもらえる地域の建築家に引き継ぎたいとのお話もありました。
これからの世代交代でどのように引き継がれていけるかも環境維持の鍵になりそうです。

ディテール的な話や様々なエピソードなど、まだまだ書ききれないくらいありましたが、

思いを形にすることの大事さを感じることができました。

S.Ono

2017年11月11日 (土)

秋のまちあるき企画 明日です。

明日になりましたが、まち歩き企画があります。
横須賀の政策空き家(入居募集しておらず、撤退予定)の市営住宅を歩くという
地味な山道散歩です^^;。

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いずれも、木造、ブロック造の平屋長屋の小さな集落となっていますが、
消えゆく前に、、、
公営住宅の役割としてどうであったか、
同潤会の普通住宅やアパートメントハウスにみられたまちづくりの視点はどうだったのか、
立地としての暮らしの連なりについてはどうだろうか、、、
今、改めて見直し、次世代のまちづくりの創造に活かすことができないものか、
といった私的な興味により企画いたしました。
よろしければ、携帯まで。。。

2017年2月15日 (水)

震災復興小学校をちらっと寄り道…。

中央区日本橋の外れで住宅改修工事をしているさなか…、
周辺を歩くと関東大震災の歴史や戦災の傷跡などに触れる街角に出会います。

震災復興小学校もそうしたうちの1つと言えます。
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中央区立旧十思小学校の今の姿です。
鉄筋コンクリート造による耐火帯建築(中庭型で耐火の壁として延焼を防ぐ形)です。
円柱、縦長のアーチ窓、アプローチに張り出した庇のデザインなど、とってもモダンなつくりです。
残念ながら学校の機能から、今はデイサービス等で活用されています。
それでも歴史の生き証人として存在している姿にまちの歴史を受け継ごうとするパワーを感じます。
 
 
山谷の路上生活者支援施設のお仕事で、打ち合わせに行くときに、
ちょっと距離はあるものの、いつも鶯谷駅から、根岸、入谷、千束と25分くらい歩いています。
このあたりも、長屋住宅や看板建築等、歴史が感じられる街角に出会えるので、なかなか楽しいエリアです。
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台東区立旧坂本小学校の今の姿です。
教育委員会が活用されているのか…、使われている様子でした。
こちらもとってもモダンな校舎です。
まちのシンボルとして、活用し続けていってほしいなと思います。
子どもの減少ということから生じる一つの姿なのかもしれないのですが、
一方で、未だに大規模開発で一時的に人口集中していて増築を繰り返している学校もあるようです…。
まちの歴史の中において、暮らしの更新スピードが今後見直されていくならば、
もしかしたら、学校機能として歴史ある空間で再利用する時が来ることだってありうるはず…歴史の重みを感じられるまちとしての存続が今の人たちに託されていると感じます。
耐震技術や補強方法は編み出されてきていて、ほぼ不可能ではないことはわかってきています。
東京のこれからの街並みに何を残し、まちの空気をつくりだせるか、じっくり時間をかけてほしい気がします。
川崎・横浜市などは既に、こうした復興小学校はすべて建て替わってしまい、当時の姿は残っていません…。

2016年1月27日 (水)

武蔵新田近くの同潤会千鳥住宅の痕跡さがし散歩

先週、現場検査後に、ちょっと寄り道をして散歩してきました。
関東大震災後復興に取り組んだ同潤会が、昭和初期まで慶応大学のグラウンドがあり、移転した後のこの地に、昭和13~14年、107戸の職工向け分譲住宅として開発したエリアがあります。

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職工向けは、住宅規模としては20坪に満たない比較的小さな規模で、同潤会としては後期にあたる住宅建設です。(川崎ですと大島4丁目のバス通りの多摩川寄りのエリアと同様です。)
川崎の同開発エリアは痕跡は見受けられませんでしたが、こちらはどうかな~と散策してきました。
まずは導入部となる環八通り付近。
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ここはそのエリアではないと思いますが、看板建築のようなファサードで戦前建築を思わせます。
トタンで覆うというのも、ペストなどの感染病対策に有用とされ、多用されていたもので、時代を感じさせます。
では、いよいよ同潤会千鳥住宅地へ。
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小さな宅地が整然と区画割されている中、緑地帯を持った変則街区もありました。
ほとんどが2つか3つの区画を一緒にした形で建て替えられています。
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北側高さ制限が厳しく、1階を少し地中に沈めて建て替えているものも多くありました。
そんな中、表から見るとわかりにくいですが、
奥を良く見ると、杉の下見板張り縦桟押え、木製建具が仕込まれた外壁がちらほらと。。。
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屋根瓦、軒木部表し、妻壁漆喰、外壁杉下見板…。
おそらく当時の痕跡ではないかと思いました。
空襲を逃れ、こうして大切に手を加えながら住まわれている様子をみると、
なぜか、うれしさがこみあげてきます。
あまりスポットが当たらない同潤会の戸建開発地の今。
痕跡さがしの散策はやめられませんね。
S.Ono

2012年9月11日 (火)

まち歩き企画です。

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“財団法人同潤会が横浜に残した

関東大震災・復興普通住宅群を歩こう”

というタイトルそのまんまのまち歩き企画を行います。

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一般の住宅地を歩きますので、少人数でのまち歩きと考えています。

専門学校の公開講座で紹介したら、ぜひ歩いてみたいとの話があり、

企画しました。

現在、復興住宅提案があちこちで求められていますが、

かつて同潤会は何を考え復興住宅づくりに取り組んだのかを資料と共に肌で感じてみませんか。いろんなヒントが見つかるかもしれません。

まち歩き後に、復興住宅提案コンペティションへの参加について、

グループをつくって提案ができないか、相談したいなと考えています。

興味のある方、連絡くださいませ。

by S.小野

2012年5月 4日 (金)

さりげなく イセビル

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関内から伊勢佐木町モールへの入り口右角に、

つい通り過ぎてしまいそうですが、古い建築があります。

伊勢佐木町モールエリアでは、アントニオ・レーモンドの不二家ビル(昭和12年築)が、

メジャーですね。やはり関東大震災による復興を目指し再建したもの。

レーモンドの仕事としては、商業施設は貴重とのことで、あちらこちらで紹介されています。

ガラスブロックの外壁は、近代的でもあり、質素なグリッドは日本的な感じもします。

今日はそこではなく、入り口の建築「イセビル」です。

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関東大震災後、都市の不燃化・耐震化が重要とされ、耐火建築補助規則の制度を活用すべく、

東京・横浜で(大正15年)立ち上がった民間会社が、復興建築助成株式会社。

これに尽力された、佐野利器(辰野金吾の教え子)は、構造の専門家で、

東京の鉄筋コンクリート造の復興小学校などにも多く関わっていますね。

同潤会とほぼ同じ時期の動きといえると思います。

その復興建築助成会社が関わった復興建築の一つが「イセビル」です。

同社による建築で今なお現存するものとしては、「九段下ビル」が唯一ではないかと思います。

復興の特徴としては、不燃・耐火建築であることはもちろんのことですが、

もう一つ大きな特徴は、複数の建築主による「共同化」です。

複数の地権者、複数の借地人等をまとめて共同化していった手法は、

その後の区分所有法の成立にも大きな影響があったのではないかと思われます。

(今の状況は不知ですが。)

まあそんな時代背景の中、昭和3年竣工してまして、今なお現役です。

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戦前・戦後のセレブたちがビアホールを千鳥足で行き来したのでしょう。

もちろんエレベーターはありません。

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ルビセイではありませんよ。「イセビル」です。(笑)

縦に伸びるアーチと柱、低層部と上層部とでそのリズムを変化させています。

さりげなく、84歳現役復興建築が伊勢佐木モールの玄関口で今なお利用されている。

これが横浜の魅力でもありますね。

by S.小野

2012年1月 7日 (土)

同潤会戸建て 横浜・大岡住宅周辺を歩く

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関東大震災の復興事業の一環として発足した同潤会は、

広域分布する罹災者への対応を画策し、

横浜市内に4つの賃貸普通住宅を計画しています。

そのうちの一つである大岡住宅のあった場所を歩いてきました。

というか、

割と近くで木造のお住まいの耐震改修リフォームのお手伝いをしていることもあり、

ちょっと寄り道してきたといったようなものですが…。

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このクランクした道の向こうが対象エリアです。

バス停に「大岡住宅」の名が残っています。

奥へ道が延びていますが、縁石が立ち上がっており、ガードもあって

車は進入禁止、大きな桜の木もあり、接道の扱いがどうなっているのか、

古い街路となっていることがわかります。

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対象エリアの中心部です。

最近舗装されたのかなと思われる黒々したアスファルト。

宅地と道との境界も分かりにくい感じ、、、通過交通が制限されていて、

(行き止まり路地などもあり)

樹木も残され、生活空間は守られているように感じました。

外部からの進入口は小さく、中心に向かって広がっていくような構成です。

Dscf4501 この奥が対象エリアです。

右に見える切妻屋根で長屋のようにつながっている2階屋は、もしや…、

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このスタイル…

同潤会による建設当初からの建築ではないかなと思われます。

大正14年、124戸のうちの数個でも残っているのは奇跡かもしれないなと思いました。

ブロック塀はちょっと残念な印象ですが、下屋と2階の乗せ方については、

住棟間の日照等を考慮しているようにも感じました。

横浜市内ではその後、

昭和2年に山下町と平沼町にアパートメントハウスをつくりましたが、

現存していません。

現存する同潤会アパートメントハウスは、上野下アパートたった一つになってしまいました。

その上野下アパートも建て替えが検討されているとのことなので、

当初からのアパートメントの存続は、風前の灯といった状況といえるでしょう。

そんな中、震災復興の理念を持って計画されてきた

同潤会の戸建て、もしくは賃貸普通住宅たちの今に、

もっとスポットが当たっても良いように思います。

この大岡住宅エリアもそのほとんどは、残像も無く、

建売住宅として建築中の現場もありました。そうして歴史が風化してしまうのでしょう。

実はこの大岡住宅は、ロケーションにミソがあるように感じました。

旧鎌倉街道から1本入ったところで、西に河川、東に大きな丘、

横浜港湾地域から比較的近く、南太田が震災後そうであったような、

貧困化などの問題も抱えていたのではないかなと…、

隣接した場所には、古くからの商屋さんなどの残存があり、

そうした地域の方々の協力があってのドラマがあったのではないかな…

などまったくの空想ですが、そんなことを考えながら歩いてきました。

最後に隣接したところに残る、洋館付き住宅などの写真をのせてみます。

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他の横浜・川崎の同潤会の戸建て、賃貸普通住宅のあった地域も

残像探しに歩いてみたくなりました。

南太田、滝頭、井土ヶ谷、新山下など、、、。

川崎の大島の勤人向け分譲については、こちらでコメントしてみましたので観てみて下さい。

by S.小野

2011年9月 5日 (月)

戦前の木造3階アパート

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鶯谷駅近くのアパートです。

山谷地域のNPO自立支援センターの施設整備のお手伝いをしてきた関係から、

その周辺での採取です。

以前から、前を通るたび気になっていましたが、ちょっと写真に残してみました。

鶯谷アパートです。

外壁まわりは数年前に改修が行なわれていました。

ということは、まだしばらくは現役でがんばってくれるのでしょう。

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右から読む館銘版がその古さを物語ります。

白く塗られてしまいましたが、元はアースカラーのスクラッチタイルです。

フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル以降、昭和初期くらいまで流行った外装タイルです。

「粋の下町 東京根岸」(草思社)によると、昭和7年、震災後東京で初めての木造3階建てのアパートとあります。

3階部分はセットバックしていてマンサード屋根のような部分に窓が設けられています。

アプローチの床タイルも遊び感覚が見られます。

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木製建具も雰囲気があってよいです。

1、2階はオフィス関係?の方が多そうで、3階は窓割りからすると、今でいうワンルームではないかと思われます。

正直いうと、外観は、改装されていることもあり、ボリュームも敷地めいっぱい、、、

高密度な印象で殺伐とした印象なので、見過ごしてしまいそうな佇まいではあります。。。

実はこの近くに、今はマンションになってしまいましたが、やはり関東震災後の復興建築とおぼしき、スクラッチタイル意匠的にもなかなか洒落た3階の複合ビルがありました。

写真を撮ったはずなのですがどこかに紛れてしまってすぐに出てこなかった、、、。

またの機会に、探して紹介できたらと思います。

入谷周辺は、空襲被害が比較的に少なかったのか、戦前の長屋なども残っていますね。

そんな風景も急速に変わってきていますが。

人手間、ひと手間が、

建築に息を吹き込んでくれていることを、小さな意匠から感じることが出来ますね。

by 小野